子供の頃から人に頼れない性分だった田中聖さん。逮捕後のメディアやSNSのバッシングで孤立し、再び薬を使ってしまいます。
「弱音を吐けない性格だった」と話す田中聖さん(撮影・後藤勝)
独立後、仕事をすべて自分で抱え込んで、プレッシャーから覚醒剤を使い始めたミュージシャンの田中聖さん(38)。
子供の頃から人に頼れない性分だった。どんな人生を歩んできたのだろうか?
そして、なぜ再び薬を使用してしまったのだろうか?
(編集長・岩永直子)
弱音は吐けず「誰をどう信用していいかわからない」
——人に頼るのが苦手なのは昔からですか?
そうかもしれないですね。
——ご長男でしたっけ?
いえ、5人兄弟の次男です。
——家族の中でご自分はどのような存在でした?
長男は10歳上で、俺が10歳ぐらいの時に結婚して家を出ています。実家の中では途中からは実質長男のような位置付けでした。
——頼られるような存在でしょうか?
そういうことが多かったですね。友達からもよく相談を受けていて、自分の中のモットーとして、「自分ができることはすべてやる」を掲げていました。
逆に自分は「人に相談する」とか「弱音を吐く」ことは自分の弱点を晒している気がして、できなかった。いつ寝首を掻かれるかわからない芸能界にいたこともあって、誰をどう信用していいかわかりませんでした。
「親友」と呼んでいる存在にすら、相談はしたことがなかったですね。
自身が一家の大黒柱だった時期も
——12歳から所属したジャニーズは自分が入りたくて入ったのですか?
そんなことはないです。芸能界に興味はなく、母親が履歴書を送りました。中1の時だったので、最初は部活の延長のような感覚です。仕事や責任感が伴う何かというよりは、習い事にいく感覚でダンスのレッスンなどに行っていました。
通うのは楽しかったです。仕事はすごく好きでした。歌だけではなく、芝居も、バラエティもすべて好きで、仕事をすること自体はすごく楽しかった。
——ご自分の収入が一家の収入源という感じでした?
一時期そういう時期があったかもしれません。でも、親も頼りきりというわけではなく、最低限働いてはいました。最近まで親父はタクシー運転手をして、お袋はパートに出ていました。
——ご自分が一家の大黒柱のような時もあったのですね。
(略)
「もう歌えないかもしれない」絶望で再び薬へ
——ご自身にとって音楽はとても大事ですよね。
大事です。
——それができなくなるかもしれないのはきついことでしたか?
そうですね。歌えないと考えるのが一番しんどかったです。留置場でもライブをしている夢を見ていました。毎日ライブをしている夢を見ていたのですが、ステージで歌っている夢が、だんだん客席で見ている夢になり、歌っている自分から遠ざかっていく夢に変わっていく。
すごくそれがしんどかったですね。
何をしていいかわからない。12歳から仕事しかしてこなかったし、逮捕前の数年は1日も休みがない状況だったので、何もしていない時間が耐えられなかった。「仕事がないイコール終わり」「暇になったら終わり」の業界で生きてきたので、忙しくないと終わりという感覚でした。
何もしないでただ家にいて、バッシングや誹謗中傷を浴びている時間は一番しんどかったです。とりあえずホームセンターでサボテンを買って寄せ植えをしたり、爬虫類の世話をしたり、何かしていないと壊れそうでした。
——その時にも誰にも相談できなかったのですね。
いませんでした。助けられるより助けたい性格が邪魔をしたのだと思います。
その間に曲を作ったとしても、その曲は日の目を見ないかもしれない、もうライブもできないかもしれない、表に立つことはできない。そんな思いの方が強かったので、作れませんでした。
そんな絶望感が続いて、最終的にまた薬に走りました。
(続く)
※全文はソースで
引用元: ・メディアのバッシング、SNSの誹謗中傷 「もう歌えないかもしれない」絶望で再び薬へ 田中聖さん [少考さん★]
弟もジャニーズじゃなかったっけ?
そりゃ復帰できないならその社会がダメなんだってのはあるけどさ
一番楽な歌手以外で働く気ナシw
女からユスりタカりカツアゲ大好き
ONLY
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