お互いに気があることは少し前から明らかだったので、感謝祭の前にはアパートの近くにあるポンチャートレイン湖のほとりを歩きながら、この問題について慎重に話しあった。私がとった立場は従順だ。他の誰かが先に彼を手に入れたのだから、それについてはどうすることもできない。彼らの関係を壊そうとも思わない。
だけど私はできるだけストレートに、不倫には道徳的に反対していないと伝えた。そうとしか言いようがなかった。だって、セックスはセックスにすぎない。つまり彼が私とセックスしたいなら、私は喜んで応えるということ。
それからすかさず言い加えた。私が重視するのは、2人の女性の気持ちを同時にケアする能力が彼にあるかだ、と。ブーツに目を落とした彼は、たぶんそんなことはできない、と答えた。
不正解だな、と私は思った。
だけど私たちは強烈に惹かれあっていたから、潜在的な問題は無視した。というか、彼が翌日婚約者に会いに行くという事実をすでに無視していた。彼が私の主張をよく理解し、同意してくれることを望みながら、2人の女性の気持ちを大切にしてほしいと私は繰り返した。
ところが彼は、それはつまり私が「パンツは履いたままでいい」と結論づけのだと受け取り、話し合いを打ち切った。
「そんなことは、しないほうがいい」。彼はそう言った。
「できない」や「しない」ではなく、「しないほうがいい」。この言葉を使うことは、セックスをより避けがたいものにした。
「後悔はしていないけど、もうできない」。マルディグラでのセックスから数日後、彼はそう言った。その後2年間の私たちは散発的に、非倫理的に、彼の婚約者に知られないようにセックスをした。そうするたび、彼は数日後に連絡してきた──「こんなことはもう二度としないほうがいい」。
意味がわからなかった。2人で楽しんでいたのに、なぜ行ったり来たりを繰り返すのだろう?
このやり取りを通して、私自身も繰り返し自問自答した。なぜ私は不倫に反対しなかったのだろう? なぜ一人の男を他の女性と共有することを自然なことに感じたのだろう?
なぜ、一夫一婦制を間違った選択肢のように感じたのだろう?
彼は婚約者と結婚しなかった。私は引っ越した。それでも私たちは関係を絶たなかった。
大学院を卒業してから10年近く経ち、それ以来、私たちは同じ州には住んでいない。彼にはパートナーがいて、家庭もある。私はテレビの世界でキャリアを積み、忙しい社会生活を送っている。最後にセックスをしたのは5年前だ(そのときは倫理的に!)。
少し前、彼に電話でおしゃべりしないかとメールした。私は電話で話すのが大好きで、しょっちゅうお願いしている。
その日は月曜日だった。彼は病気の父親の見舞いに行っていて、金曜日なら時間を作れると言う。私は了承して、だけど金曜日になると、彼は約束を忘れていた。移動と赤ん坊の世話、親としての仕事に追われ、私のことは頭の片隅に追いやられていたのだ。
気遣いの欠如はあらゆる人間関係で起こる。そして人の気持ちが傷つくのは、約束をしていたのに相手が忘れてしまうからだ。そんなことはよくある。
だけどこうした問題が起きたとき、私たちが状況を解決するために必要な努力は、一夫一婦制をとっている人にとって難解に思えるだろう。
私からすれば、すべての人間関係が子供の頃に持っていた紙人形のようなものだ。下着姿の人形に、状況にあわせて別の服を着せる。
ベースとなるのは裸の姿だ。そこにあるのは無防備さと親密さだ。愛人、親戚、友人、ガールフレンド、夫、恋人、どんな「服」で着飾ってもベースは変わらない。そしてベースがしっかりしていれば、何かしらの「服」を着ていた人が、いずれ別の「服」を着てしまうことなんて簡単にわかる。
いつからか私は、人間関係にラベルを貼る「服」を使うことをやめたのだ。(抜粋)
https://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/a10804bd299e61b3eb7e06464855c3a8f041fef1&preview=auto
引用元: ・【論説】婚約者のいる男友達とセックスしたら、「生涯のパートナー」ができた…NYタイムズ
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