2024.02.27
■正史・演義で活躍のブレが少ない貴重な魏将
魏(ぎ)の名将・張郃(ちょうこう/?~231年)を知る人は多いであろう。張遼(ちょうりょう)や徐晃(じょこう)と同様、外様ながら指折りの功臣にのぼりつめた元勲のひとりである。
彼がいかに優れた将軍だったか。それは正史『三国志』と『三国志演義』とで、その活躍にほとんどブレがないことで証明される。
「演義」にかかると、おしなべて魏や呉の武将の活躍度合いは弱くされがち。最期も史実通りでない死を遂げるなど、パッとしない傾向がみられるが、この張郃は例外というべき厚遇を受けている。
「演義」の活躍でいうと、初っ端に張遼と一騎討ちで互角に打ち合ってその武勇を発揮。その後も趙雲・馬超・張飛と戦場で相まみえ、勝てずに敗走こそすれ、武器をとっての戦いでは彼らとほぼ互角に打ち合うほどの強さだ。
定軍山では「張郃を討てたならば、夏侯淵を斬った手柄の十倍に当たる」と、歴戦の劉備が彼を高く評価。これは史書『魏略』にもとづく言葉だ。
そして最期は諸葛亮による北伐を防衛するため前線に出陣し、そのさなかに木門道で矢を受けて倒れる。張郃を討ったことは蜀漢側にとっての大戦果として後世に喧伝されるほどで、その存在の大きさがわかろう。
■しかし、吉川英治『三国志』では・・・
しかし長年、日本の三国志小説のスタンダードの地位を保ってきた吉川英治『三国志』では、なぜか張郃が散々な目に遭う。問題の場面を2つ、抜粋してみよう。
“一方の嶮路から、関羽の隊の旗が見えた。
養子の関平や、部下周倉をしたがえ、三百余騎で馳せ降ってきた。
猛然、張郃の勢を、うしろから粉砕し、趙子龍と協力して、とうとう敵将張郃を屠(ほふ)ってしまった。”(孔明の巻「泥魚」より)
“趙雲は躍り立って、
「天この若君を捨てたまわず、われに青釭(せいこう)の剣を貸す!」
と、歓喜の声をあげながら、背に負う長剣を引き抜くやいな、張郃の肩先から馬体まで、一刀に斬り下げて、すさまじい血をかぶった。”(赤壁の巻「宝剣」より)
一度目は趙雲が劉備の陣営に新加入して間もないころで、彼の戦功を読者に印象付けるため。二度目は趙雲最大の見せ場ともいえる長阪坡。
まだ名のある将を討っていない彼が、この大舞台での「大物食い」を果たすにふさわしい場であったことは間違いない。そして231年の第四次北伐(木門道)で史実通りの「三度目の死」が描かれるのである。
実は一度目、二度目は撃退されただけで死んでいなかった、張郃は不死身のごとく回復したのだという見解もあるが、描写を見る限り無理があろう。もちろん原典『三国志演義』ではいずれの場面でも死亡せず、撤退するにとどまっている。
■吉川本人も気付いて苦笑い?
https://www.rekishijin.com/35362
引用元: ・「俺を三度も殺すやつがいるか!」吉川英治『三国志』で3度も昇天した魏将・張郃の悲劇とは? [朝一から閉店までφ★]
呂布と張飛のアホさにとてもイライラした思い出
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