2月22日は「竹島の日」だ。日本固有の領土である竹島(島根県隠岐の島町)が韓国に不法占拠されてから今年で70年になる。
政府の領土・主権展示館(東京・霞が関)は今月、韓国側の主張の誤りを理解してもらう狙いも込め、竹島と近くにある韓国の
鬱陵(うつりょう)島を巡る日本の認識や地名の変遷に関する小冊子を発刊した。江戸時代に竹島は「松島」、鬱陵島が「竹島」と
呼ばれていた経緯を紹介。竹島は一貫して日本領として認識されていた実態がうかがえる。江戸時代から航海の中継地
冊子のタイトルは「日本の『かたち』を描く─日本海の島々の認識の変遷─」。同館で開催中の企画展「日本の『かたち』を描く」で配布している。
江戸時代初期から、米子(鳥取県西部)の商人は江戸幕府の許可を得て鬱陵島に渡り、アワビ採取やアシカの捕獲などを行っていた。
冊子では航行の途中に現在の竹島を発見し、航行の目標や中継地に利用していたことを紹介。竹島への渡航については「老中の御内意
(ごないい)」を得たという書簡も盛り込んだ。
1780年に地理学者・長久保赤水が作成した「改正日本輿地路程全図」(初版)は、鬱陵島と竹島について「竹島(鬱陵島)から
高麗(朝鮮)が見える」と付記している。
冊子は全図を取り上げ、「朝鮮が見えるということは見ている場所は朝鮮に属さないと考えられる。より日本側にある『松島』も
同様に朝鮮に属さない」などと解説した。
この付記は1667年の隠岐地方の地誌を引用。幕府は1696年、米子の商人が鬱陵島に渡航することを禁止している。
太政官指令は韓国の主張覆す
鬱陵島を巡っては、1780年代後半にフランスの航海家や英国の探検家が別々に測量した結果、緯度経度にずれが生じ、欧州の地図で
鬱陵島と架空の島が併存した時期があった。
冊子では欧米の地図で架空の島が描かれた結果、架空の島が「竹島」、鬱陵島が「松島」と呼ばれるようになった経緯を指摘。
その名称が幕末に日本にも伝わったものの、日本の軍艦が1878~80年に朝鮮半島周辺海域を測量した結果、「架空の島」
が存在しないことが確認された過程も触れている。
一方、明治政府が1877年3月に発出した太政官指令は「竹島ともう一つの島は日本と関係ない」と記されており、韓国は「竹島」
が現在の鬱陵島、「もう一つの島」は「松島」(現在の竹島)と主張し、明治政府が現在の竹島の領有権を否定した根拠に利用している。
冊子に掲載される明治時代の外交官、花房義質の「花房義質関係文書」では、明治政府の大久保利通内務卿は太政官指令が出された当時、
「松島」を鬱陵島と認識していることを示している。
太政官指令で「日本に関係ない」とされる「もう一つの島」(松島)は現在の竹島ではなく、鬱陵島を示している形になる。(以下略)
産経新聞 2024/2/22 11:36
https://www.sankei.com/article/20240222-QKBOYOULO5A33NPTLNTADB2OLE/
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